現代の「平均律」とバッハの「ウェル・テンペラメント」の調律法は相違するのか?

バロック時代の1720年代、鍵盤楽器の調律法(平均律など)が発達し、J.S.バッハが『平均律クラヴィーア曲集』で全24調を用いて作曲したことが現在の音楽の24調性(12の長調と12の短調)の源です。1720年代は、鍵盤楽器の調律技術は大きな転換期を迎えていました。その渦中でJ.S.バッハが発表した『平均律クラヴィーア曲集』は、すべての調(24の長調・短調)を網羅した記念碑的な作品であり、現代の24調性システムの原点となっています。では、バッハの時代の調律方法と現代の調律法を比較してみましょう。

バッハの時代までの調律法

  • ルネサンス・初期バロック時代
    特定の音程を響かせる「ミーントーン(中全音律)」が主流でした。特定の調性は綺麗に響くものの、全ての調で演奏するのは不可能(破綻する調が存在する)でした。
  • 調律法の進化
    17〜18世紀にかけて、全ての調で均等に演奏できる「平均律」や、各調の響きの個性を残した「ウェル・テンペスト(ヴェルクマイスターなど)」などの新しい調律法が研究・考案されました。
  • J.S.バッハによる確立(1722年)
    バッハが『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』を発表し、1オクターブ内の12の半音すべてを主音とする長調・短調(計24調)で楽曲を作曲しました。これにより24調のシステムと概念が音楽界に定着しました。
注釈

但し、「24調性」という概念の成立にはバッハの単独の功績だけでなく、前後の時代背景や他の音楽家の貢献も含まれます。

バッハ以前の先駆者
バッハの直前(1702年や1719年)に、他の音楽家(J.C.F.フィッシャーやマッテゾン)も24に近い多くの調性を使った曲集を出版しています。

さらに音楽理論として整理し、各調が持つ性格(ハ長調は「明るい」、ニ短調は「厳粛」など)を体系化したのは、ヨハン・マッテゾンらによる18世紀のバロック音楽理論です。


現代の「平均律」とバッハが用いた「ウェル・テンペラメント」の決定的な違い

実際には現代の「平均律」とバッハが用いた「ウェル・テンペラメント」では何が違うのか?

「すべての調が完全に同じ響きになるか、調ごとに異なる独自の色彩(キャラクター)を持つか」という点が決定的に違います。

現代の平均律は均等な数学的分割ですが、バッハの時代は「どの調でも演奏可能でありながら、調ごとに響きの美しさや緊迫感が変化する」調律でした。

現代の平均律が「機能性と平等のための音律」であるならば、バッハのウェル・テンペラメントは「それぞれの個性を活かしながら共存させる、調和のための音律」だったという点が、決定的な違いです。

3つの具体的な違い

  • 音程の分割方法(均等か不均等か)
    現代の平均律は、1オクターブを12等分に完全な数学的計算で、1オクターブ(周波数比1:2)を数学的に12等分した音律です。ウェル・テンペラメントは不均等な分割(不等分律)であり、うなり(音の濁り)の少ない綺麗な響きの場所と、あえて濁らせる場所を混在させました。
  • 「調の個性(調性格)」の有無
    平均律はすべての調の比率が同じなため、移調しても曲の雰囲気は変わりません。ウェル・テンペラメントは調によって3度音程などの広さが異なるため、ハ長調は「澄んだ響き」、シャープやフラットが多い調は「緊張感のある濁った響き」といった固有の色彩が生まれました。
  • うなり(濁り)の分散度合い
    平均律はすべての調で均等に少しずつ音を犠牲に(濁らせて)います。ウェル・テンペラメントは、よく使う主要な和音をできるだけ美しく響かせ、遠い調(調号が多い調)にいくほど濁りが強くなるように設計されています。

ウェル・テンペラメントは不均等な分割(不等分律)は、具体的にどのようなものか?

ウェル・テンペラメント(不等分律)は、分かりやすく例えるならば、「12個のドレミの部屋の『広さ』を、あえてバラバラにして、よく使う部屋だけを最高にキレイにした調律」です。

例えば、

1. 現代の「平均律」は、みんな同じ広さ

1オクターブ(ドから次のドまで)の間には、黒い鍵盤も含めて12個の音(ド、ド♯、レ、レ♯…)があります。

  • 現代の平均律:12個の音の間隔を、定規で測ったようにすべて同じ広さに分けます。
  • 結果:どの調(ハ長調やヘ長調など)で演奏しても、全く同じ雰囲気の響きになります。

2. ウェル・テンペラメントは「よく使う音」を特別扱い

バッハの時代のウェル・テンペラメントは、この12個の間隔をわざとバラバラ(不均等)にしました。

  • よく使う「ド」や「ソ」のまわり
    音と音の間隔をものすごく細かく計算して、ハモった(和音を弾いた)ときに、濁りがなくて一番キレイに響くように狭く(または広く)調整します。
  • あまり使わない「ミ♯」や「ファ♯」のまわり
    よく使う音をキレイにした「しわ寄せ(残りのすき間)」が集まるため、間隔がゆがんで、ハモったときに少しウニウニと濁った響きになります。

24の調性システムが定着した際の記譜法の顕著な変化は?

では、調律方法が変わったことにより、記譜法には変化が起こらなかったのか?という疑問がわきます。

実際には、24調性システムが定着した18世紀初頭、記譜法(楽譜の書き方)における最も顕著な変化として「調号(シャープやフラット)の数の標準化」がありました。

それ以前は同じ調でも曲によって調号の数が異なることが普通でしたが、24調が確立したことで現代と同じ「五度圏(サークル・オブ・フィフス)」に基づく合理的なシステムへと移行しました。

記譜法の3大変化

  • 調号の数が現代と同じに統一
    それ以前は、短調で調号を1つ少なく書く慣習(例:ニ短調を調号なしで書き、臨時記号で対応する「ドリア旋法」の名残り)が主流でした。これが完全に整理され、平行調(例:ハ長調とイ短調はともに調号なし)の概念で統一されました。
  • 調号の配列順序の固定化
    シャープ(ファ・ド・ソ・レ・ラ・ミ・シ)やフラット(シ・ミ・ラ・レ・ソ・ド・ファ)を五線譜に書き入れる順番と位置が、現在の形へとマニュアル化されました。
  • 臨時記号(ナチュラル・ダブルシャープなど)の明確化
    すべての調へ自由に転調できるようになり、元の調に戻すための「ナチュラル(本位記号)」や、シャープが多い調で使う「ダブルシャープ」「ダブルフラット」の使用ルールが厳格に定義されました。

バッハの時代の調律ピッチでは「調ごとの響きの違い(色彩感)」は表現できなかったのか?

では、単純にバロックピッチに調律すれば、当時の色彩感を表現することはできないのか?という疑問もわきますが、実は、

現代の平均律とバッハのウェル・テンペラメントで「調の個性(調性格)」が生まれる原因は、基準ピッチ(A=415Hzなど全体の音の高さ)によるものではありません

これは、1オクターブ内にある「12の音と音の間の幅(インターバル)が均等か不均等か」という音律の構造的な違いに起因するものだからです。

このため、バッハは敢えて「調ごとの響きの違い(色彩感)」を利用し、それぞれの調の個性に合わせたキャラクターの楽曲(喜び、祈り、悲しみなど)を『平均律クラヴィーア曲集』の中で描き分けました。


1. 「調性格」が生まれる理由(不等分律)

ウェル・テンペラメントは、1オクターブを均等に割らない不等分律(ふとうぶんりつ)です。

  • うなりの配置の違い:特定の和音(例:C-E-Gなど)は「純正律」に近く非常に美しく響く一方、調号が増えて遠い調(例:F♯-A♯-C♯など)にいくほど、音と音の間隔が広く歪み、独自の「うなり(濁り・うねり)」が生じます。
  • 緊張感の変化:この「調ごとに和音の濁り具合や響きの緊迫感が異なる現象」こそが、作曲家に「ハ長調は清純」「ニ短調は厳粛」といった独自の色彩(調性格)を感じさせた本質的な原因です。

2. なぜ「基準ピッチ」が原因ではないのか?

当時、全体の基準となる音の高さ(「ラ」の音を何Hzにするか)は、現代(A=440〜442Hz) よりも半音ほど低いA=415Hz前後(バロックピッチ)が主流でした。しかし、これは全体のトーンが上下するだけです。

  • 仮に現代のピッチ(A=440Hz)でウェル・テンペラメントを調律しても、調の個性(調性格)は完全に再現されます。
  • 逆に、バッハの時代の低いピッチ(A=415Hz)のまま現代の平均律で調律すると、どの調を弾いても響きの比率が全く同じになるため、調の個性(調性格)はすべて消滅します

したがって、「ピッチ(全体の高さ)」は当時の空気感や楽器の鳴りに影響を与えはするものの、24調の響きの違いや個性を生み出す決定的な原因にはならず、100%「音程の不均等な分割(音律)」でしか調性格は生まれません

3. だから「曲の性格」が変わる

この調律のままで、いろいろな調の曲を弾くと、興味深いことが起きます。

ハ長調(シャープやフラットがない調)
特別扱いされた「キレイな音」ばかりを使うので、とても澄んだ、明るい響きになります。



バッハの時代の半音階

バッハの時代、半音階は絶望やどん底を表す、と言われている?

バッハの時代において、半音階(特に下に向かって進む半音階)が「絶望」や「どん底」「激しい苦痛」を表すというのは、音楽史の事実です。

バロック時代には、特定の音の並び(音型)に特定の感情や宗教的メッセージを重ね合わせる「音楽修辞学(おんがくしゅうじがく)」という厳格なルール(お約束)がありました。

イメージしやすいように、その仕組みとバッハが使った具体的なテクニックを解説すると、

1. 半音階が「絶望」になる理由

当時のドレミ(全音階)は、教会の神聖な光や自然の秩序を表していました。
そこへ、間を細かく刻む「半音階」が入ってくると、当時の人々は「調和が壊れていく」「心がすれ違う」「じわじわと体や心が締め付けられる」という感覚を抱きました。

この半音階を、音楽のルールでは以下のような名前で呼んで意味を持たせていました。

  • パッスス・ドゥリウスクルス(つらい歩み)
    半音ずつ階段を降りていく、あるいは登っていく動きのことです。特に重い足取りで下に降りていく半音階は、「絶望のどん底に落ちていく姿」「キリストが十字架を背負って苦しそうに歩く姿」をそのまま楽譜で表しています。
  • ラメント・バス(嘆きの低音)
    曲の一番低い音(ベースの音)が、半音ずつずーんと下がっていく手法です。これは当時のヨーロッパ共通のルールで、「お葬式の音楽」や「絶望して涙を流すシーン」には必ずこれが使われました。

2. バッハの曲での使われ方

バッハはこのルールを誰よりも上手に使った天才でした。

  • マタイ受難曲(イエスの死を描いた名曲)
    キリストが十字架にかけられるシーンや、弟子が裏切って絶望するシーンでは、信じられないほど複雑で苦しい半音階がこれでもかと登場します。
  • シンフォニア 第9番(ヘ短調)
    ピアノを習う人がよく弾く3声の曲ですが、テーマ(主旋律)自体が「ため息」のような半音階でできています。この曲のテーマは音楽の世界で「絶望」や「深い嘆き」そのものを表していると言われています。

このように、バッハの時代は半音階を、「悲しい、苦しい、もうおしまいだ」という人間の心の叫びや絶望を伝えるための、言葉の代わりとしていたことが分かります。


現代の平均律が「どこを弾いても80点の優等生」だとすれば、ウェル・テンペラメントは「ハ長調は100点だけど、シャープが多い調は60点にして、わざとハラハラする響きにする天才肌」の調律です。バッハはこの「100点の明るさ」から「60点の怪しい響き」まで、調律法を駆使して24個の調の個性をすべて楽しむために曲を作ったのです。やはり天才ですね!


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